2014年1月12日

脱亜論

時事新報、社説

明治18年/1885年、3月16日

世界の交通は目まぐるしくしく進化して、西洋文明の風は遂に東アジアにもやつてきました。今や、草木さえもこの風の影響を受けています。

西洋人であつても東洋人であつても、人間であることには、何ら変わりはありません。

けれど、昨今、西洋人の影響力と行動力が著しく大きくなつてきたのは、偏に交通の便が発達したことによります。西洋文明が東進してくるのに対して、これを、防ごうと思うなら、先ず大切なのは覚悟です。

そして、覚悟を定めて、世界の現実を良く見て、世界で何が起きているのか、現実を良く確認しなければなりません。

文明というのは、いわば麻疹/はしか、のような伝染病に似ています。今、東京で起きている伝染病は、元々、西国の長崎で流行つたものかもしれないけれど、何時の間にか東進して、春の暖かさと共に東京に迄広がりました。

伝染病が始まつた時、それが広がつてから病を防ごうとしても、手段はありません。

有害なだけで何の得にもならない流行病でも、それが、一度始まれば、其の勢いを防ぐことはできないのです。

ましてや、西洋文明となれば、それは、西欧社会に利益を齎すとものなのですから、侵攻を止めるのは至難の技です。

であるならば、西欧文明の侵入そのものを防ぐというのではなく、寧ろ私達自身が体力をつけて、これに、負けない国になるしかありません。

それが、智者の選択と行うべきものです。

そもそも、西洋文明がわが国に流行つてきたのは、江戸時代のことです。嘉永年間に黒船がやつてきて、多くの人たちがその脅威を前に、日本が強くならなければならぬと心に誓いました。

けれども、それを、させまいと進歩の前に横たわつたのが徳川幕府でした。

日本が近代化して西欧と対等に付き合える国となるか、それとも、幕府を中心とした旧体制を維持するか。其の二者択一を迫られたときわが国は、国を重んじ政府を軽しとする大義に基づいて行動し、御皇室という神聖且つ尊厳ある存在と共に、最早老害以外の何ものでもなくなつた旧幕府を倒し、新政府を打ち立てることを選択をしました。

日本は、国中、身分の別なく、西洋文明に追いついて行こうという体制を打ち立てたのです。そうすること、我が國は、次々と植民地支配されて行くアジア諸国の中にあつて、唯一、国家として、民族として独立自尊を保ち、生き残るための新たな基軸を打ち立て、近代国家を形成することに成功しています。

では、其の日本が行った選択とは何であつたのか。

それこそが、将に脱亜の二字でした。

日本は、アジアの最東端にある国です。しかし、其のの日本国民の精神は、既にアジア的老害を脱して、西洋文明に近づきつつあります。即ち、日本は西欧諸国とあい並ぶ独立国家としての道を進み始めている訳です。

ところが、その日本には、実は大変な不幸があります。何かと云うと、支那朝鮮です。此の二国も、元々は日本と同じくアジア流の政教風俗を持つている国です。

ところが、人種の違いなのか、教育の差なのか、支那朝鮮と、日本との文化的な隔たりは、余りにもも大きいものです。

情報が此れ程速く行き来する時代なのです。西欧的近代文明や、国際法についての知識は、彼らにだって当然も齎されている筈です。

にもかかわらず、支那朝鮮の二国は、全く変わろうという気がありません。

変わろうとしないだけでなく、まるっきり、百千年の昔のままの姿で居続けようとしています。

文明が、将に日進月歩で進化している現代にありながら、此の両国は教育と云えば二千年も昔の儒教を言い、学校教育では仁義礼智と言い、一から十まで外見を飾りたてることだけを大事にして、中味は、まるで、空つぽの脳みそしか持ち合わせていません。

アホにはアホの可愛らしさというものが、普通ならあるけれど、此の二国に関しては道徳心など欠片ほどもなく、其の残酷さは破廉恥を窮めています。

それでいながら、態度だけは傲慢そのもので、如何に他国や他人に迷惑をかけても、自省の色なんて毛ほどもありません。

私に言わせれば、此の西欧文明の東進という脅威に対し、此の二国が独立を維持し続けるなどというのは、凡そ不可能なことです。

若し支那朝鮮の二国に、幸いにも救国の志士が現れて、我が國の明治維新のような政治改革を実現し、政治を革めて人心の一新ができれば、話は別ですが。そうでなければ、支那朝鮮の二国は、今から数年を経ずして亡国の道を辿り、其の国土は世界の文明諸国によつて分割、分断されてしまうことは、火を見るより明らかなことです。

何故なら、伝染病にも等しい西洋文明の侵攻にあいながら、支那韓国の両国は、其の伝染するという自然の摂理に背いて、無理に此れを避けようとして、旧来の陋習/ろうしゅう、という一室に引き篭もるつているだけだからです。

そんなことをして、部屋の空気を遮断すれば、そのうち、窒息して死んでしまうのは当たり前のことです。

春秋左氏伝に、唇歯輔車/しんしほしゃ、と云う言葉があります。此の言葉は、輔車が頬骨ほおぼねと下あごの骨、唇歯が唇と歯で、隣国同志が互いに助け合う事を言います。

けれども、今の支那朝鮮は、日本のために毛筋一本の値打ちもありません。一毫の援助と為らざる。

そればかりか、ややこしいことに、此の日支朝の三国が地理的に近いがゆえに、欧米人から同一視されかねません。

つまり、支那や朝鮮の不出来な振る舞いをもつて、恰も日本も同じだと思われてしまいかねない危険性さえも持つているのです。

例えば、支那朝鮮が古い専制君主独裁体制で、法治の観念を持たない国であれば、西洋人は、日本もまた、ああ無法律の国かとみなしてしまいます。

支那人や朝鮮人が理屈に倣い手前勝手な屁理屈ばかり並べ立てれば、嗚呼日本人も屁理屈をこねくりまわしている、訳の分からない国だと思われます。

或いは支那朝鮮人が、西欧の武力に恥かしげもなく屈して卑屈な態度を取つていれば、嗚呼日本も同じ卑屈な習俗の国だとしか思われません。

また、朝鮮の刑罰に、凡そ人に行うには酷すぎる残虐な刑罰があれば、日本も同様に残虐非道な国だと疑われてしまう。

こんな例をあげれば、それこそ、枚挙に暇がありません 。

ようするに、一つの村の住人のほとんどが、愚かで無法で残忍で無情ならば、譬え其の村の中に全うな一家があつたとしても、村の外の人々からみれば、どっちもどっちにしか見えないというのと同じことなのです。

そして、其の影響は既に随所に現われていて、我が国の外交に少なからぬ影響を与えています。

これこそ、我が日本の一大不幸というべきことです。

最早日本に、支那や朝鮮が開明して国際常識を身につける日を待つているような余裕はありません。

寧ろ、支那や朝鮮とは早々に縁を切つて、西欧諸国と進退を共にすべきです。

そして、支那朝鮮と接するときには、一々、隣国だからと云つて格別の配慮など、最早する必要など更々ありません。

支那朝鮮に対しては、西欧諸国が両国に接するのと全く同様に、相手を人の住む国とさえ思わず、厳しく対処すれば宜しい。悪友と仲良くする者は、共に悪名を免れないものです。

私は、心に於いて、最早アジア東方の悪友である支那朝鮮とは、絶交を宣言するものです。



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新世紀まほらまひとが啓く道、大義と道義が燦ときらめく、大和人よ、すめらの大地に舞い踊れ、みことの翼でたみをば抱きて、遠遠に契りを交わせしはらからよ、今ぞまほらの地に涌出しなむ。