2013年4月13日

國體護持塾/こくたいごじじゅく

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私の父は、召集を受けて北平/北京、にあつた支那駐屯軍司令部付の特務機關に將校として配屬され、停戰協定後の武装解除手續を完了させて祖國に復員したが、私が生まれる前の昭和二十三年六月十九日に衆參兩議院で教育勅語/教育ニ關スル勅語、などを排除し失效させる決議がなされたことに對して、痛惜の思ひを抱き續けてゐたのであらう。

父は、私が教育勅語を暗誦できるやうになると、其の無念さを語り出した。

平成二年十一月一日に身罷つたが、其の遺言状にはたゞ一言、教育勅語を復活させよとあつた。

これを、義命の存するところと受け止めて、私は、後の人生を決めた。

それまで、推考してきたことに加へて、さらに獨自の研究を行つた結果、新たな占領憲法無效論/新無效論、を完成させ、父の遺言を實行する第一歩として、今上陛下に占領憲法無效宣言を諫疏する天皇請願を行ふ請願書を、平成四年五月二十六日に當時の内閣總理大臣宮澤喜一宛/總理府宛、に屆けた。

それから、此の理論を初めて世に問ふた前著『日本國家構造論』を完成させて上梓したのが翌平成五年十二月八日である。

十一日後に、此の意義を深く理解してくれた母が急逝した。

私は、母の柩に前著を入れて父の元に屆けてもらつた。それから、平成六年七月三十日の祓庭復憲の草莽崛起運動の提唱へと進んて行つた。

しかし、此のやうな理論と運動に對する周圍からの風當たりは、誠に嚴しいものがあつた。

運動は牛歩の如く遲々として大きくは進展しなかつたが、それでも、樣々な困難と迫害を乘り越えて此処まで來られたことは、神佛のご加護の賜であつたことを衷心より日々感謝申し上げてゐる。

斯くの如き日々の中で、之までに得られた細やかな光明の一つとしては、所謂左翼とか極左に分類されてゐる人たちの中からも、私の新無效論を理解する人が少なからず出てきたことである。

彼らからすれば、不本意ではあるが、論理を追求して行けば新無效論に到達せざるを得ないといふのである。

或る人によれば、向く付け気むくつけき戰後空間において、徐々に戰後體制からの脱却を指向してゐる動きがあり、新無效論が理解される雰圍氣が生まれてきたとの指摘もある。

しかし、反面教師である共産黨などの研究を長くしてきた私からすれば、其の雰圍氣といふのは、逆に大きな危險を孕んでゐると感じてゐる。それは、天皇拔きの民族主義が席卷する土壤の生まれる危險と表裏の關係にあると感じてゐるからである。國體護持、序言より。

國體護持塾、南出喜久治塾長。憲法学会会員。独自の研究により新たな占領憲法無効論を完成させた。平成4年5月に、今上陛下に、占領憲法無効宣言を諌疏する天皇請願を行なう。



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新世紀まほらまひとが啓く道、大義と道義が燦ときらめく、大和人よ、すめらの大地に舞い踊れ、みことの翼でたみをば抱きて、遠遠に契りを交わせしはらからよ、今ぞまほらの地に涌出しなむ。